
供養というものも境界のひとつである。
この間、YouTubeで動物供養の話を見て、この本をすこし読んでみた。
犬について、個人の犬というものはなく、村の犬として存在していたとのことである。犬は昔から人間と他界の境界のような存在としてみなされていた。外に行ったりまた村に戻ったり、していたのだろう。境界を自由に行き来する存在であった。供養については、犬卒塔婆というものがあり、三差路や村境に建てられ、侵入者や邪霊を払い、境界標識としても機能していた。
犬だけでなく、猫、キツネ、たぬきなども境界を行き来する存在としてみられていた。たしかに、、きつねやたぬきの昔話は沢山ある。。
猫については、死んだ猫を昔は辻に埋めて、杓子をたてる風習があったとのこと。そこで思いついた、「猫も杓子も」ということわざはそこから来ているのかな。。。と。猫と杓子を結びつける共有認識が昔の人にはあったのかもしれない。今ではそんな認識はないようだけれど。。。
そのYouTubeで心に残った話が、動物供養の碑を立てなくなったと殺場があるという話だった。と殺の人が、市民に「自分たちのできないことをしてくれてありがとう」と言われることがある、それに対する拒否の気持ちがあり、そもそも家畜を殺すことが悪いこと、かわいそうなこと、という概念がおかしい、ということになり、供養というのはその概念につながるとして、供養塔を立てなくなった、ということである。
『現代供養論考 ヒト・モノ・動植物の慰霊』松崎憲三/慶友社
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